[ ]
 影に恋う


原作とアニメとドラマCD総括して一番掴めないのが尾浜さんです。
そのこわさを誰よりも知っているのは鉢屋さんだとおもってます。

 尾浜勘右衛門は掴めない男だ。化ける鉢屋は狐、化かす尾浜が狸、二人揃えば学級委員長委員会の狸と狐だと誰が言い出したか。喜怒哀楽がはっきりしていて、それなりに人がよく人懐っこく親しみやすい。それなのに、からっと明るい竹谷が裏表なく好かれているのに対して、最後の最後でどこか油断がならないと思ってしまうのが勘右衛門だった。後輩たちは無邪気に慕っているが、近い学年はいい人と評価するには煮え切らず、忍びとしての目では食わせ者と見ているようだ。同学年はそれもひっくるめて、天然寄りだけどどこかアレ、と思っている。
 人の良い、気の良い、どこか抜けた、人懐こく親しみやすい、それでいて腹の底では何を考えているのか、本当には分からない────鉢屋三郎は誰かに成り切る為に、あるいは成り代われるほどに、相手の姿形だけでなくその精神まで読み解く。その鉢屋でさえその行動から表面しか読めない、尾浜は。

 忍者は本来ひとにあらず、いやひとであってはならない。例えるならばあやかしのごとく、人に認識されて初めて存在する、本来ならば“いるはずのない”もの。人の営みの隙間に潜み、目的を遂げる。彼岸と此岸の狭間、幽世から闇とともに這い出してくる、あやかしによく似た────だがあやかしではなく。
 鉢屋三郎が何者にでもなることで何者でもない、あやかしに近い忍びならば、尾浜勘右衛門は人間(じんかん)に溶け込み人のふりをする、どうしようもなくあやかしだった。
 つまるところ二人は背中合わせで、最も近いからこそ最も遠い相手だった。鉢屋三郎は人には化けられても、あやかしには成れない。分からない。不可解と興味が一線を振り切ってしまったことに気付いた時には遅かった。人の心は読めても、手繰れても、あやかしを惚れさせるすべなんてどんな手引書にも載っていないのだから。それでもなお消えない感情が、全くもってすくわれなかった。

(18.06.21)


[ text.htm ]